宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

SITH-1

ネット記事で、「うつリスクが12倍?8割のうつ病患者が持つたんぱく質「シス」とは?」というタイトルのものがありました。

 

昔、春山茂雄先生の「脳内革命」をまともに信じた私なので、「やれやれまた査読も済んでいない与太話を自称ジャーナリストのサイエンスライターさんが拾ってきて、センセーショナルなタイトルを付けてPVを稼ごうとしているのか?」と、眉に唾を付けてとりあえず読んでみました。

 

読み進めると、どうやら本物のようです。裏取りのためネット検索をすると、東京慈恵会医科大学・近藤先生の名前が出てきました。んんん?近藤先生?・・・・

 

今度は「ガンもどき」で有名な近藤誠先生が思い浮かんできてしまいましたが、名前をよく見ると近藤一博先生であって、全くの別人でした。

 

気を取り直して、東京慈恵会医科大学ウイルス学講座のサイトを読んでみます。やっぱり本物であって、真実のようです。

 


要旨は、

①幼児期に全ての人が感染するヒトヘルペスウイルス6型の中に、SITH-1という遺伝子がある。

 

②そのSITH-1が、人を12.2倍うつ病になりやすくする。またSITH-1の影響によってうつ病になった人は、全体の79.8%である。

 

ヘルペスウイルスの特徴として、普段は大人しくしているが宿主(感染者)が弱った時に大いに増悪(増殖)して、他の個体へ乗り移ろうとするとともに宿主(感染者)を苦しめる。SITH-1も、人が弱った時に活発に働きその人をうつ病にしやすくする。

 

④ヒトヘルペスウイルス6型は、一度感染すると体内にいつまでも残る。よってSITH-1も人の精神に影響を与え続ける。

 

⑤(これは先生の想像だが、)ネアンデルタール人が滅んでクロマニョン人(→現生人類)が生き延びたのは、このヒトヘルペスウイルス6型への感染によりクロマニョン人が「心配性」になったからではないか。不安の影響で攻撃的になった現生人類がネアンデルタール人を駆逐していったのだ。また現生人類は7万年ほど前に突如として集団生活を開始したり宗教的になっているが、ヒトヘルペスウイルス6型の感染により不安が増大したのが原因ではないか?

 

⑥新型ウイルスの出現により人類のありようが大きく変えられてしまったということだが、新型ウイルスの出現は特異なことでも何でもない。今現在も新型コロナウイルスが出現・変異していっている。

 

です。

 

 

とても興味深く読ませてもらいました。考えてみれば狂犬病ウイルスにしても、発症すると人の精神に非常に大きな影響を与えるし、ウイルスが人の精神に影響を与えるのは普通に起こることなのでしょう。

 

ヒトヘルペスウイルス6型はSITH-1が乗っているいるという点で厄介なウイルスですが、研究が進めば、親などから感染しないうちにワクチンで抗体を作って感染を回避できるようになったりするのでしょうか?うつ病など、世の中から消えて欲しいと思います。

 

また今後、もっと質の悪いウイルスが出現して人間の精神を変えてしまう可能性は無いのでしょうか?狂犬病ウイルスなどは発病したら100%死にますが、もし人を殺さない狂犬病ウイルスに酷似したウイルスが出現したら?それは人をゾンビのようにするゾンビウイルスとでも呼ばれるようになるのだろうと思います。

 

その時はその時で、人類の智慧を叡智を結集して難局を乗り切るしかありません。

思いつくままに

先日台風9号と10号が同時に日本列島に接近してきていましたが、そういえば接近した台風同士が相互作用を起こす「藤原の効果」とかいう、平安の昔の歌詠みみたいな現象があったような?と思って調べてみたところ、2014年から「使用を控える気象用語」になって、使われなくなっていました。

 

使用を控える気象用語になった理由は、同時に発生している気圧の谷、高気圧、偏西風などを含めたそれぞれの相互作用の程度を明確に示せないからとのこと。なるほど、と納得しました。曖昧過ぎてどのようにも解釈しうるものを、仮にもサイエンスである気象予測で論じるのは不適切です。

 

再現性もなく証明もできず数値で表すこともできず、自分でこうだと決めて信じるだけとなると、もはやそれは宗教と似たようなものになります。科学と宗教は相容れません。

 

ところで「幸〇の科学」という新興宗教団体があります。臆面も無く科学を前面に出していますが、その理由は「抹香くさい宗教や、胡散臭い絶対神・スピリチュアルは嫌だけど宗教的・精神世界的なものには惹かれる人たち」を取り込むためです。あの馬鹿馬鹿しい降霊インタビューをやらなければ、もっと釣れるのでは?

 

また「幸〇の科学」の教団施設の多くが、大きな病院の傍に建てられています。病苦で信仰の対象を求めざるを得なくなった無信心者も取り込んであの世へ持って行けない金を搾り取ろうとするとみるのが当然でしょう。ここまでえげつないと、むしろ小〇圭さんのような肚の座った野心家の天晴さみたいなものを感じます。

 

小〇圭さん・・・あの肚の座り方、頭の良さ、細心さ、男前さ、女たらし、将来ビジョン、逃げ・・・どこか明治の元勲;木戸孝允のようだと思いました。

タンパク質欲

先日、飲酒の習慣を止めて運動を始めた、3週間で4kg体重が減った、あと6kgほど減らしたいが中年で基礎代謝も落ちているから長丁場になる云々を書きました。しかし今、あれから4kg減っており、4+4=8kg減ったことになります。

 

糖尿病かガンにでも罹ったように減りましたが、健康診断では今までよりも数字が大きく改善してほとんどがA判定だし、運動を開始した直後に買った体組成計で確認している筋肉量もほとんど変化がありません。

 

体組成計はスマホと連動しスマホに経日変化グラフが出るのですが、体脂肪率と体重・BMIが右肩下がりで、体水分率が右肩上がりなので、問題なく減量できています。タニタのRD-804L体組成計、ちょっと高価だったけど優れもので、買って良かったと思います。


私の場合は順調に体重が落ちてきていますが、通常はそういうわけにはいきません。


少しくらい運動したとしても、それ以上に食べれば痩せるわけがありません。動物の本能である食欲を何とかしない限り、少し痩せてはストレスが溜まってドカ食いしてしまい、リバウンドして余計に太ることを繰り返す人は多く、肥満と言われる人は先進国を中心に億人単位でいます。何か方法は無いのか?


巷では胡散臭いダイエット広告に溢れていますが、youtubeもまた然り。インチキ業者が浄土真宗を称するS会顔負けの詐欺広告を打っていたり、胡散臭いダイエット法を真に受けた人が動画を作ってアップしていたりしますが、そこは玉石混淆のyoutube、まともそうなものがありました。

 

本要約チャンネルの”【最新作】「科学者たちが語る食欲」を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】”です。

 

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科学者たちが語る食欲

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科学者たちが語る食欲より

これは「科学者たちが語る食欲」という本を要約したもので、要するに人は動物の本能としての「タンパク質欲」に突き動かされており、無意識にタンパク質の量を確保できるまで食べようとする。だから低タンパク高炭水化物の食品を好む場合は食事量が多くなってその結果太るのだということ。逆に言うと、高タンパクの食品を食べることで食事量を減らせる、その結果痩せられるということです。

 

隠元禅師のインゲン豆とか、高野山の高野豆腐とか、精進料理全般にも言えることですが、昔のお坊さんはよく豆類を食べていました。これはタンパク質豊富な豆類を食べることにより健康を維持するという意味の他にも、食事量を減らすことで「貪欲」を鎮めるという意味もあったのかもしれないと思いました。

 

また私の体重が問題なく減ってきているのも、筋肉量を落とさないようにと日頃から豆類を含む高タンパクの食品と野菜をちゃんと摂っているのが幸いしているのでしょう。確かに食べる総量は結構減っています。偶然にも、目的に適った行動を採っていたということです。

アドラー心理学

昔、インターネットの掲示板でのこと。

 

yugetoyuto.hatenablog.com

 

ここのカテゴリーマスターが推していたのが、アドラー心理学でした。興味を持った私は書店を訪れましたが、一般向けの良書が見当たりません。やむなく分厚い専門書を買って読んでみました。

 

その頃カテゴリーマスターとリアルでお会いする機会があったのですが、専門書を買って読み始めたことを伝えると、とても喜んでおられました。もう20年以上前のことです。

 

その専門書ですが、序盤の方は割とサクサク読めました。しかし段々と専門用語が多くなったり、難しい言い回しが増えてきて、半分ほど読んだところでギブアップしました。頭の良い人なら難なく読めるのでしょうが、ノータリンで読解力に乏しい私には荷が重かったのでした。

 

アドラー心理学についてはずっと気になっていたので、後にベストセラーになる「嫌われる勇気」を書店で見かけたときは思わず手に取って序盤に目を通し、直ちに購入しました。6年くらい前のことです。

 

アドラー心理学では、

・人間の悩みは、元をただせば全てが対人関係の悩みであること。

 

・人は劣等感から来る主観的な思い込みによって、自分でも気づかないうちに自分を規定し自縄自縛になっているものであること。

 

・承認欲求を否定することが、自分の人生を生きる上で非常に重要であること。

 

・大小様々なトラブルや問題について、誰が最終的にその結末を引き受けることになるのかを見定めて、「身内を含む他者の課題」と「自分自身の課題」にキッチリ分離したうえで、対応することが肝要であること。

 

・「共同体感覚」を大切にすること。

 

などを説いていますが、ほとんどがいちいち納得・共感できるものです。例外として私が「ちょっと違うかな?」と思うのは、「承認欲求を否定する」でしょうか。承認欲求は、群れを作る生物として進化してきた人類にとっては本能とも言えます。否定はないでしょうと。

 

一人の人間として認めてほしい。好きな異性から好かれたい。友情で人とつながりたい。一人前の職業人として認められたい(だから努力をする)・・・・・

 

何が問題なのでしょうか?

 

問題は、「愛する人から常時愛していると言ってほしい」、「愛する人に常時自分を見ていてほしい」、「自分が友情を感じているから、相手も友情を感じていないと許せない」、「(現実は半人前なのに)これだけ努力している(つもりだ)から、一人前の職業人として認められないとおかしい」などといった、「独り善がりの承認欲求」だろうと思います。

 

承認欲求自体に良いも悪いも無く、そこに執着するかどうか、自分の心に生起している承認欲求がどんなものかを正しく認識できるかの問題なのでは?と思います。

ブラウジング機能

先日TVを棄てて、受動的な時間潰しが無くなりました。代わりに youtube をよく視るようになりましたが、以前はyoutubeの動画などは所詮素人が作ったものだから出来の程は高が知れているだろうと漠然と思っていました。

 

しかしその認識は誤りでした。自分で視てもいないのに、勝手にそう思っていただけでした。

 

最近よく視るのは、津崎まみさんの動画。恋愛に関する動画ですが、人間心理に対する洞察がかなり深くて、共感や納得できる部分が多いです。なぜ彼女の動画を見るようになったのかは忘れましたが、youtubeサーフィンをしているうちにブラウジング機能で出てきたものを、どれどれどんな事を言うのかな?と思って視るうちに引き込まれてしまったのだろうと思います。

 

2チャンネル創設者のひろゆきさんの動画も好きです。この人は頭が良く、おためごかしや欺瞞が嫌いで言いたいことをズケズケと言いますが、本質を突いていることが多いです。

 

また最近は占い師のけんけんさんの動画をよく視ます。占い師など、新興宗教やスピリチュアルの指導者などとともに、胡散臭い人間の代名詞と言えますが、彼は違います。「占い師など大半は詐欺師と変わらない。そんなものに頼るな、そんな金と暇があるのなら少しでも自分が出来る努力をすべきだ」などと言い、「占い詐欺 実名告発」などのタイトルの動画を作る人で、オカルトファンでもある私はすっかり彼の動画にはまってしまいました。もちろん話半分で、ファンタジーのような感じで視聴しますが。

 

フェルミ研究所」、「本要約チャンネル」、「ゆっくり解説」などの動画もよく視ます。たまに的外れなことを言っていたりしますが、ためになります。全般に言えることですがこういう系では特に、鵜吞みにせず自分で裏取りすることが大切です。

 

で、宗教に関して。出てくるのですよ、浄土真宗を称するS会布教師の、K谷R太の動画がお奨めとして。無論 youtubeブラウジング機能によって勝手に出てくるのですが、youtube で宗教の検索は数回だしそれも曹洞宗です。

 

浄土真宗まがいの新興宗教である彼の動画は一度も視聴したことがないのに、最近ほとんど毎回出てくる。どうやら他の人が作った人生に関する動画等に紐付いて、出てくるようです。モノによっては数十万回の再生数が表示されていますが、みんな、騙されないでねと祈るのみです。

自燈明 法燈明

「自燈明 法燈明」 

 

これは釈尊が最晩年、クシナガラの郊外、沙羅双樹のもとで説かれた最後の教えとされるものです。「自らを拠り所としなさい。法(=真理)を拠り所としなさい」と意訳されることが多いです。

 

お経は漢語で書かれており、漢字だけが並んでいるイメージがありますが、当然ながら元々は古代インド語で書かれています。漢訳の「燈明(灯明)」ですが、原始仏典(パーリ語)では、「島」の意味合いを含んでいたそうです。

 

「(大海の中、)自らを島としなさい。真理を島としなさい。」となりますが、漢訳の「(暗闇の中、)自らを灯明としなさい。真理を灯明としなさい。」の方が、苦のこの世界の中、自らが真理に向かって近づいていけるイメージがあって、良いなと思います。この最後の教えが、釈尊が人々に伝えたかったことの集大成であり、最も伝えたかったこととなります。南無妙法蓮華経を唱えよ、でもなく、阿弥陀如来を信じ切れ、でもないのです。

 

パーリ語の原始仏典が日本に入ってきたのは、今から100年ほど前、明治時代です。その頃の日本仏教界では、指導者たちが、自分たちが教えていることとあまりにも違う釈尊本来の教えに仰天していたとのことです。そりゃそうでしょう。

 

では日本に伝わった仏教は紛い物か?というと、そうでもないと思います。釈尊は対機説法(人それぞれに対して最適な教え方)をしていたのですが、釈尊自身は瞑想によって法(=真理)に到達していたものの、それはもともと言語化不能であるし、迦葉には拈華微笑で伝わったものの、他の直弟子たちには伝えようがなかった。

 

よって原始仏典として後世に残らなかったものの、釈尊死後数百年経った後継者たちのうち釈尊と同等以上の素質を持った者が、釈尊から受け継いだ瞑想によって、釈尊と同等の水準以上に到達し、そこで得たものを釈尊の言葉として何とか言語化を試み、それが大乗経典として残ったのかもしれません。瞑想には才能が必要で、仏教では方便OKですから。

 

全ては信心、信じたいものを信じれば良いのではないでしょうか。

 

 

全力でぶつかるだけ

釈尊の教えはシンプルです。後代の人の「後付け」を取り去って釈尊在世の教えの要点を言うと、

 

■この世の全ては「苦」です。(自分ではどうにもならないという意味合いを含む)生まれるのも、老いるのも、病気になるのも、死ぬのもそうでしょう。

 

■「苦」の原因は「煩悩」です。「煩悩に執着」すればするほど「苦」が大きくなることを理解しなさい。

 

■「執着」から「離れる」ことが、「苦」を滅することです。「執着」を「断とう」と躍起になってはなりません。それこそが「執着」だと理解しなさい。

 

■「苦」を滅するために、以下を実践しなさい。

 ・正しいものの見方をしなさい。

 ・正しい心の持ち方をしなさい。

 ・言葉を正しく使いなさい。嘘を言ったり、人を傷つけることを言ったりすることもいけません。

 ・(仏教の実践修行としての)正しい行いをしなさい。

 ・日々、健全な生活をしなさい。

 ・善い行いをするよう、日々努めなさい。悪い行いをしないよう、自らを改めなさい。

 ・上記の教えを心に正しく刻み、反芻して深化させなさい。

 ・上記を踏まえ、正しく瞑想しなさい。

 

となります。在世当時の具体的な釈尊の指導としては、

 

〇証明できない形而上のことを議論するのは、何にもならないので止めなさい。(当時巷で言われていた「輪廻転生」や「業」など)

 

〇異性を遠ざけなさい。「苦」の中核たる「渇愛」の元です。異性は生きた「糞袋」だと思いなさい。

 

〇世間の雑事から離れて出家し、執着や貪欲を捨て去りなさい。

 

などがあります。

 

「苦」から逃れるために、みんな仕事しないで坊主になれ・異性はウンコだと思え という、なかなか過激なことを仰っていたわけです。まったく厭世的で、じゃあ生まれてこなければ良かったじゃん?とも言いたくなりますが、当時の仏教はこれに答えてはくれません。

 

ただ「生まれてこなければ良かったじゃん?」の答えは、釈尊死後に作られるようになります。仏教が輪廻転生や業を取り込んだからです。すなわち「輪廻の輪の中で修業をし、いつかそこから脱出して仏になる」ために人は生まれ、仏になるには人間として生まれる必要があることから、「生まれてこなければ良かったじゃん」にはならないのです。

 

ちなみに浄土教の場合は、人は輪廻の輪の中で修業をする必要はありません。阿弥陀さまという有難~~~い先人が先に輪廻の輪の外に出て自らの世界を作っており、死後は阿弥陀さまに全てお任せしますと言い切るまでに信仰すれば、私たちを必ず輪廻の輪の中から脱出させ、阿弥陀さまの世界に連れて行ってくれるからです。

 

まあいずれにしても、通仏教らしく、輪廻の輪を脱出することを至上のこととして絶対化しており、いわゆる「現世」を如何に有意義に、如何に楽しく生きるかを軽視しています。(但し年代が下ると現世重視の密教が出てきますが。仏教は重層的です。)

 

享楽的に生きることが良いとは思いませんが、浄土真宗を称するS会(=インチキ新興宗教;カネに汚く、偽装が得意)に入信してしまい、地獄に堕ちたくないからと、教団に可処分所得を寄付して「救い」のポイント点数を貯め、気が付いたら老人になっており、独身で無一文に近かった・・・などという気の毒な話を聞くにつけて、「みんな、今を大事にしようよ。」と思うのです。

 

生きることが喜びである宇宙観・世界観を自分なりに突き詰め、釈尊の教え(=苦を減らす方法論)を基本に現代のメソッド(瞑想法など)も使って「苦」を減らし、日々いろいろと考え、感じ、楽しく過ごして死んでいきたい。

 

死後の世界が有るなら有るで、死んでみたら分かるのだし、死ぬ前にあれこれ思い悩む必要がない。死後の世界があるとしたら人間の言葉で記述できるような底の浅いものではないから、つまらないことで時間を潰さないで精一杯生きて、死後に行った先でも全力でぶつかるだけだ。そう思います。