宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

譲カード

f:id:yugetoyuto:20200515130720j:plain

 

「夫源病」で有名な石蔵文信医師が、「譲カード」を作成したとのことです。
新型コロナにより医療崩壊し、コロナ重症者の数が高度医療ができる病床数を上回って医療従事者が「命の選択」を迫られる状況を念頭に、高齢者が万が一の時、「高度医療を若者に譲る」という意志を示すカードです。法的効力はありません。普及するでしょうか?

これが30年前なら、明治や大正生まれの人がまだまだ生きていたので「若者よ生きろ、我々は逝く。」と考える人は少なくなかったのではないかと思います。子や孫が西欧列強に蹂躙されるのを防ごうと、重税に耐え滅私奉公で必死に国を作ってきた人たちを親や祖父母に持ち、自身は戦争をくぐり抜けてきているからです。若者には生きて社会を担ってほしいのです。譲カード、やや普及ですが、明治や大正生まれの人はこの世から既にほとんど居なくなっています。

一方今の団塊高齢者は戦後に生まれ、滅私奉公などは考えませんし、高度経済成長を謳歌し個人の自由を追い求めてきた世代ですので、「公」なんかよりも圧倒的に「私」です。平たくいうと、団塊以後は私の世代も含め、自分の事しか考えていません。あくまでも総論ですが。なお社会に対し共同体としての意識を持ち、社会に貢献したいという層ならば「譲カード」を持とうとするかもしれませんが、少数です。世間的には、「譲カード?何それ?」となると思います。


宗教の切り口で見るとどうでしょうか。キリスト教であれば、「譲カード」を持とうとする信者は少なくないのではないでしょうか。ジーザスは人類の罪を一身に背負って磔死していますが、ジーザスの自己犠牲は人類への赦しであり愛であって、ジーザスに倣って自己犠牲的に生きることが死後の天国往きに大きく繋がるからです。キリスト教界隈ではこの譲カード、やや普及するかも?です。信仰の強さに因るでしょう。

では仏教は?といえば、思い浮かぶのは「捨身飼虎」です。このエピソードは、釈尊の前世である薩埵王子が、飢えた虎の親子にその身を投げ出して喰わせ、救ったと言われるもので、「本生譚」の一つとして金光明経に記載があります。しかしこれは自己犠牲を称えているのではなく、前世の段階で釈尊が自分の生命にすら執着を持たないほど悟りに近づいていたということを示すもので、釈尊に箔をつけるために紀元4世紀頃に後付けで創作されたものと言って良いと思います。

では在世時の人間釈尊は自己犠牲をどう捉えていたのでしょうか。釈尊一代の教えといえば、極端を避けて中道を往きなさい、四念処に励みなさいであり、悟りを開き彼岸に往くことのみです。自己犠牲などは決して推奨していませんでした。またキリスト教では悪人に右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい(マタイ書)と言われるのに対し、釈尊の教えは「悪人から逃げなさい」なのです。

話は逸れましたが、キリスト教での自己犠牲が死後の天国往きに濃く繋がっていることに対し、仏教一般においては自己犠牲が六道輪廻を超越することに対し大きな意味を持たないことから、自己犠牲の意味から「譲カード」を持とうとする仏教信者はまず居ないだろうと思います。釈尊同様に自分の生命に対する執着から離れる意味からであればありえると思いますが、関心を持つのは禅宗くらいでしょう。ということで、仏教界隈ではこの譲カード、あまり顧みられることは無いと思います。