宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

輪廻転生とは

仏教における輪廻転生について、考えてみました。

 

輪廻転生は、いつからあったのでしょうか。人類が誕生する前からあったのでしょう。人類が誕生する前の六道は、人間道が無いので五道だったのでしょう。

それではずっと遡って、生命誕生前はどうだったのでしょうか?輪廻とは生命が行うものであって、輪廻は原理上存在しません。零道です。

つまり輪廻転生は、仏教において太古から変わらない大宇宙の普遍の真理のような顔をしていますが、生命誕生と共に発生し、以降数を増やしていっていることになります。現在は6とされていますが、将来は7以上になるのかもしれません。それとも実は宇宙誕生の頃から輪廻転生の仕組みはあったのだが、生命が生まれていなかっただけなのだというのでしょうか。

 

では、輪廻転生の際に、転生先を決めるのは誰でしょうか?生命が誕生したてのころ、善悪を判断する存在がいたとすれば、その知性はどこから来たのでしょうか?

輪廻転生先を決める存在の知性が、そこに生きている生命の知性の高さに因るならば、生命の知性の発展に伴い、善悪の基準は違ったことでしょう。恐竜の時代、善は他者を殺して捕食し生き延びる力が強いことだったでしょう。群れで生きるように進化した生物においては、自分を差し置き他者を助けることが群れ全体としての生存可能性を上げるため、それが善ということになりますが、その判断の物差しは、地球史で見るとごく最近のことです。

 

輪廻転生の判断基準は、時代とともにアップデートされたのでしょうか。現在は他者を助けることが善とされていますが、それは群れで生きる生物の転生に対してだけであって、群れを作らない生物に対してはアップデートされているわけではないのでしょうか。

また文化によっても善悪は異なります。心臓をくりぬき、いけにえとするのが故人の栄誉とされた文化もあります。故人のためを思って心臓をくりぬいた人は、地獄に堕ちるのでしょうか?どの文化が判断基準なのでしょうか?

 

こう考えてみると、六道輪廻は馬鹿馬鹿しさ満載に思えます。インドの古典であるヴェーダも、初期の頃には輪廻思想などはありませんでした。その後インドで広く信じられるようになり、アジアを中心にその思想が輸出され、現在に至っているだけなのかもしれません。ただの「ミーム」のようなものというわけです。

 

すべての宗教は、証明できないことを核に自己完結していますが、言い換えると証明できないことに対しては強烈に思考停止しており、傍からみるととても奇妙なものでもあります。

宗教を信じる者すべてが、「自分はこの宗教を信じているが、それは証明できない〇〇と△△と□□を前提としていて、それが前提のままで証明できない以上は、この宗教が世の絶対の真理であるとは主張できない。」とありのままに認めることができれば、世界が随分と平和になるのだろうと思います。