宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

しっくりくる宇宙観・世界観で。

前回、輪廻転生について書きました。というか、こき下ろしました。

 

しかし輪廻転生とはただのミームであり、存在しないと言い切れるのでしょうか?そんなことはないでしょう。生死を超えた永続性・連続性を持つ「魂のようなもの」が存在する可能性は十分にあるでしょう。

同じように、神は存在しないと言い切れるのでしょうか?そんなことはないでしょう。知的生命がその知性を大いに進化させ量子や宇宙の仕組みを完全に理解し、実験室の中などに自在に干渉できる世界を作れたら、それを作った存在が神です。映画「THE MATRIX」のようなものです。

以前に集団自殺した新興宗教団体の「ヘブンズゲート」について書きました。彼らの信じたことは全くの誤りであったと言い切れるでしょうか?そりゃ言い切れません。私たちは死んでないからです。

 

当たり前のことですが、自分が一番しっくりくる宇宙観・世界観でこの世を見て、信じるものを決めるしかありません。ただの人間に出来るのは、それだけでしょう。魂のようなものはあるのか、無いのか。あるとすれば永続性や連続性はあるのか、無いのか。絶対神を信じられるのか、一笑に付すのか。自分が一番しっくりくる世界観も、変遷することも大いにあるでしょう。新興宗教ジプシーの人などは特にその傾向があります。

 

そう考えると禅宗は、証明不能な死後や輪廻ついては関心を持たず、ただこの世で悟りに近づこうとする宗派であり、仏教の中ではとてもマトモに思えます。狂騒や沈鬱が鎮まってニュートラルな心持ちとなっていきますが、悟りを開くことに執着はしません。悟りに執着すればするほと、悟りから遠ざかるからです。不立文字、教外別伝も、きっとそうなのでしょう。宇宙の深遠な実相が、この程度の知性しか持たない人類の文字に表すことができるとは到底思えません。

 

では浄土真宗は荒唐無稽で無益な宗教なのでしょうか?それは違うでしょう。仏教の目的は解脱(=輪廻の輪から脱出すること)であって、通仏教の世界観を信じるときにどうしても立ちはだかる輪廻転生の壁を、阿弥陀仏を信じることで超越できる教えであるからです。輪廻転生がどのようなものかは脇に置いておけます。「輪廻のようなものはある」という考えがしっくりくる人にとっては、これは大きいのではないでしょうか。行き着くところまで行った感があります。

 

いやいや、この世は死んだら終わりで、我々はたまたま知性を持っただけだよ、魂だ神だと下らないことに振り回されて人生を浪費しないで、充実した時間の質と量の積の総和に自分自身が満足できれば、それで幸運な人生だよと考える人もいるでしょう。それもサッパリとしてて、良いなと思います。