宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

自燈明 法燈明

「自燈明 法燈明」 

 

これは釈尊が最晩年、クシナガラの郊外、沙羅双樹のもとで説かれた最後の教えとされるものです。「自らを拠り所としなさい。法(=真理)を拠り所としなさい」と意訳されることが多いです。

 

お経は漢語で書かれており、漢字だけが並んでいるイメージがありますが、当然ながら元々は古代インド語で書かれています。漢訳の「燈明(灯明)」ですが、原始仏典(パーリ語)では、「島」の意味合いを含んでいたそうです。

 

「(大海の中、)自らを島としなさい。真理を島としなさい。」となりますが、漢訳の「(暗闇の中、)自らを灯明としなさい。真理を灯明としなさい。」の方が、苦のこの世界の中、自らが真理に向かって近づいていけるイメージがあって、良いなと思います。この最後の教えが、釈尊が人々に伝えたかったことの集大成であり、最も伝えたかったこととなります。南無妙法蓮華経を唱えよ、でもなく、阿弥陀如来を信じ切れ、でもないのです。

 

パーリ語の原始仏典が日本に入ってきたのは、今から100年ほど前、明治時代です。その頃の日本仏教界では、指導者たちが、自分たちが教えていることとあまりにも違う釈尊本来の教えに仰天していたとのことです。そりゃそうでしょう。

 

では日本に伝わった仏教は紛い物か?というと、そうでもないと思います。釈尊は対機説法(人それぞれに対して最適な教え方)をしていたのですが、釈尊自身は瞑想によって法(=真理)に到達していたものの、それはもともと言語化不能であるし、迦葉には拈華微笑で伝わったものの、他の直弟子たちには伝えようがなかった。

 

よって原始仏典として後世に残らなかったものの、釈尊死後数百年経った後継者たちのうち釈尊と同等以上の素質を持った者が、釈尊から受け継いだ瞑想によって、釈尊と同等の水準以上に到達し、そこで得たものを釈尊の言葉として何とか言語化を試み、それが大乗経典として残ったのかもしれません。瞑想には才能が必要で、仏教では方便OKですから。

 

全ては信心、信じたいものを信じれば良いのではないでしょうか。