宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

宗教登山、業務登山、スポーツ登山

越中立山一帯は、古くから信仰の山として全国から参詣者を集めていました。主峰の雄山;標高3003mは阿弥陀仏の極楽浄土の象徴とされ、硫化水素の吹き出す「地獄谷」は血の池地獄、弥陀ヶ原の池塘は「餓鬼田」とされています。

その中で劔岳;標高2999mは、針山地獄とされていました。極めて切り立っており、あまりにも急峻で全山岩盤が露出しているために雪が付きにくく、冬は他の山が真っ白に雪化粧しても、劔岳だけは青く見える部分が少なくありません。冬のよく晴れた日に、麓から見る劔岳の荘厳さは圧倒的なものがあります。

その劔岳立山信仰では登ってはいけない地獄の山として登頂を禁止されていましたが、禁止されなくとも、頂上付近に来ると巨大な岩壁が立ち塞がり、昔はどうやっても登れませんでした。

明治39年、そこへ登れと命令されたのが、参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎氏でした。ここら一帯の三角点網の完成のための、測量官の仕事としての登山です。柴崎氏は立山仲語(山岳ガイド)の宇治長次郎、助手の生田信らに助けられながら、登頂の可能性を探るのですが、どうやっても糸口が見つかりません。険しい岩山を登るとき、少しバランスを崩しただけで滑落しあの世へ行くこともあります。登頂命令は死ねという命令とニアリーイコールでした。

当時の陸地測量部は、参謀本部が管轄するものの、部員は文官のため、「登頂命令」に対し「できません」ということはできたようです。ただ当時の漢が「できません」など軽々しく言えるでしょうか。滑落して殉職したとしても「滑落して殉職するなど測量部の恥」と言われます。柴崎氏は悩んだと思います。

翌年、柴崎氏らは修験者の言い伝えを元に、1年のうちわずかな期間だけ現れる残雪期の雪渓を詰めて見事劔岳登頂を果たしたのですが、実は彼らが初登頂だったわけではありませんでした。山頂の一角の窪みに、修験者のものとみられる錫杖の頭と鉄剣を発見したからでした。錫杖の頭と鉄剣は、奈良時代後期から平安時代初期のものと推定されています。

彼ら修験者も柴崎氏と同様に何とか劔岳登頂しようと努力を重ねて、ついに1年にわずかな期間だけ現れる雪渓ルートを発見したということで、それが語り継がれ、柴崎氏の登頂に繋がったということです。いまその雪渓は長次郎雪渓と呼ばれていますが、その登頂方法を見つけるまでに、雪崩、滑落、落石、凍死などで多くの修験者が死んでいったことだろうと思います。修験道とは命を賭したひたむきさを持つものだったようです。

ちなみに劔岳は、現在はスポーツ登山や岩登りの山として人気です。南西からの一般ルートでは、柴崎氏が絶望したであろう山頂付近の大きな岩に、今はケミカルアンカーが打たれ鉄梯子や鉄鎖がかかっています。それらを掴んでいれば滑落はしませんが、その垂直に近い岩の大きさが数十mもあるので高度感があり、下を見ないようにおっかなびっくり進むので渋滞します。一方、北からの一般ルートは空いています。ただ、単調な直線に近い尾根道なのであまり面白くなく、特に森林限界を超えるまではつまらないです。頂上付近に少しだけスリリングな箇所があります。

新田次郎さんが「劔岳 点の記」で、柴崎氏の劔岳登頂を小説化しています。