宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

醒めるとき

自粛正月に久しぶりにTVドラマを見ようとしましたが、すぐに馬鹿馬鹿しくなって止めました。演技や演出の「不自然さ」や「わざとらしさ」が目について醒めてしまい、ドラマの世界から現実に引き戻されたからです。

 

私は銃が出てくる日本のドラマもダメで、一瞬で醒めます。撃ったときの反動がなく、構え方もおかしいからです。海外で銃を撃ってみた事がある人ならばすぐに分るでしょう。海外ドラマでちゃんと実弾を撃っているものは、作品自体をきちんと作ってあり見ごたえがあります。

 

 

人の作った作品について、私が最初に「醒めた」のは中学生の頃だったと思います。少年漫画の年始企画で、表紙に漫画家先生の顔写真が作中のキャラクターの顔とともにカラーでズラリと並んでいるのを見たときです。

 

なぜ「醒めた」のか?毎号楽しみに読んでいた漫画の世界って、結局はこんなオッサンたちの脳内妄想に過ぎないんだな・・・と気が付いたからです。まあ、漫画ってそういうもので、当たり前のことなんですが。

 

 

子役のセリフも醒めポイントです。日本の子役はとにかく棒読みが多い。ドラマの世界からすぐに現実に引き戻されます。それに比べるとハリウッドに出てくるような子役は、かなり幼いのに棒読みには聞こえません。セリフにきちんと感情が乗っています。

 

文法が曖昧で、同音異義語が多くて前後の文脈を考えねば理解できないし、さらには空気を読んで発言しなければならない日本語は、ある程度頭脳が発達するまでは操るのが困難であり、話すだけで精一杯、そこが日本語を話す子役の辛いところなのかもしれません。

 

 

話はそれてしまいましたが、わざとらしさを感じると、醒めてしまうのは何故でしょうか?それは、自分に対し真摯に向き合ってくれていない、または誤魔化そう・騙そうとしているときに「わざとらしさ」が生まれるため、それらがセットになって心の中に格納されているからでしょう。

 

つまり「わざとらしさ」に紐付いた「真摯に向き合っていない・誤魔化し・騙し」を意識下で感じてしまうから、ポジティブな感情が転じ、醒めてしまうということです。

(お笑い芸人がわざとらしく間違えて笑いを取ったり、仲の良い人の間でわざとらしくボケることがあります。そのときもわざとらしさは感じますが、芸人と客、ボケる側とそれを受ける側で信頼関係が成り立っているため、不快感には転化しません。)

 

 

なお浄土真宗を称するS会に居る「教団の不正や嘘や欺瞞を知りつつ教団に残っている人たち」は、もはや教団を信頼しておらず「醒めて」はいるのですが教団から離れられません。

 

何十年という歳月と可処分所得の大半を捧げて信じてきた教義が矛盾だらけで、不正や嘘や欺瞞の塊であると認めたくない、言い換えると「人生を棒に振った感」と向き合いたくないというのが最大の理由のようです。本当に気の毒だと思います。