宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

釈尊の沈黙

前回、「運」という記事で「何でもかんでも因・縁・果」に結び付けて考えなくても良いのではないかと書きました。理由は、我々を取り巻く自然界は「無作為の因(直接の原因)と無作為の縁(間接の条件)により、無作為の果(結果)が時々刻々至る所で生じている」であり、そこから生じた我々生命が、仏教的な「因・縁・果」で全て説明できると思えないからでした。

さて現代インドのヒンドゥー教ですが、仏教同様に輪廻転生や業を説き、善因善果・悪因悪果で、悪人は来世で相応の報いを受けるとします。それはそれでまあ良いのですが、問題なのは「前世で悪事を働いた報いとして最下層民として生まれたのだ。だから最下層民は現世で報いを受けて当然なのだ」と正当化されて、最下層民への殺人・虐待・強姦などがインドのあちこちで今も行われていることです。確かに論理的にはそうなりますが、「因・縁・果」が悪用されてしまっています。

日本においても、昔からインチキ新興宗教が必ずと言って良いほど「因・縁・果」を悪用してきました。高価な壺などを買わせる霊感商法も昔からあるし、現代では壺がパワーストーンになったりスピリチュアル風になったりしています。

S会脱会者ブログでは、脱会を迷っている人の投稿で、「父が、悲惨な目に遭った人の話を聞いて鼻で嗤って、そいつは前世で悪いことをしたんだ。悪因悪果で当然だ。」と言っていて悲しかったというのがありました。(その「父」はいまだ熱心なS会信者) S会では無償奉仕させたり金を搾り取るため、信者に対し「善因善果・悪因悪果」と、「全ての人は極悪人」を同時に繰り返し叩き込むのです。

自分が過去にしたことに対して報いが来るとするのは良いですが、前世などの証明が出来ない事を持ち出し「因・縁・果」を悪用する事ほど、始末に負えないことはないと思います。

釈尊が存命中、輪廻転生や業などの、証明不能で悪用されかねない生死を跨ぐ形而上のことに対して、沈黙を貫いていたことは当然だと思います。釈尊入滅後400~500年ほども経ってから成立した大乗仏教では、釈尊が輪廻転生や仏国土などを直接説いたように見せかける経典がありますが、もう成立後2000年ほども経っています。もうここらで、釈尊が直接説いたという旗を下ろしても良いのではないでしょうか。

釈尊が直接説かなくとも、この2000年ほどの間、一度西の方に振れてから反転してシルクロードを通り、既に大文明国である中国で大切にされ日本に渡ってきた大乗経典は、数多の人から真贋を見極められてきています。説いていること全てが真実だとは思いませんが、間違いなく「本物」でしょう。釈尊が遺した教えが、偉大な後継者を続々と輩出できるものであったということです。