宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

毎日ネットでも地上波でも新型コロナ報道が非常に多いですが、食傷気味の人も多く、コロナ鬱というワードも上がって来ているようです。生活の見通しが立たなくなる場合は、そりゃそうなってもおかしくありません。

この新型コロナ、感染防御していても気が付かないうちに感染している人も多いのだから、この前産業医と面談し、重症化リスクがあり在宅勤務を推奨された成人病持ちの私としては、まな板の上で勝手にしてくれよと言うしかありません。自分でやれることをやったら、後は運次第でしょう。

さてこの「運」ですが、キリスト教では運という考え方そのものが馴染みません。全知全能の神が居るため、人生の運・不運は人間が勝手に「神の御心」を忖度して感じるものとなります。

また仏教では「因(直接の原因)」・「縁(間接的な条件)」・「果(結果)」を説いているので、「運が良かった」のは、相応の「因」がありそれに「縁」が働いたからとなります。純粋な「運」(=無作為な因と無作為な縁によるもの)は仏教には馴染みません。

しかしながら、世の中には「無作為な因と無作為な縁による運」に溢れているように思います。我々を取り巻く物理法則でも、1枚の葉を落としたとき、着地点が全く同じになることは絶対にありません。綺麗な六角形の雪の結晶も、全く同じものは有りません。太陽系が現在の形になり、地球がハビタブルゾーンにあり、自転軸が絶妙の傾き具合で、月が地球の自転を安定させ、木星が地球への小惑星落下を防いでいるのも、ただの偶然です。

「無作為な因と無作為な縁による運」によって現象(=果)が起こるのが自然界の基本で、その自然界から発生した生命が、いわゆる仏教的世界観である「因・縁・果」で全て説明が出来るとは思えないのです。

「良い運に恵まれるよう、良いことをしよう」は、それはそれで良いのですが、何でもかんでも無理に「因・縁・果」に結び付けなくても良いのではないか。人生において現れてくる事象をそのまま、色眼鏡を掛けずに色々な角度から考えてみるのが大切ではないでしょうか。