宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

悪や煩悩とは?

先週、シチューと仏教という記事で、「私達は脳が意味付けしたシステムにどっぷり浸かりながら生活をしている。本来は実体の無いものへの脳が行う意味付けは、生存のために進化の過程で獲得したもの」と考えた旨を書きました。

この考えを敷衍すると、「進化により知能を発達させた人間が、生き物として未だに持っている習性に対する呼称が悪や煩悩」とも言えると思いました。

貪欲・・・仏教で言う三毒の一つで「むさぼる心」。もっと欲しい、もっと欲しいと思う心の働き。元々は原始の生き物だった頃から、安定して食料にありつける訳ではないため、食べられるときに出来るだけ食べておいて生存可能性を上げようとするための原始的本能。文明が発展するに伴い「物」に対してや、「お金」に対しても貪欲の対象が拡大したが、食欲の方は脳の満腹中枢が働くことで無制限に食べることを回避出来るのに対し、物欲の方はそのような本能的ストッパーが無いために起こる習性。

瞋恚・・・仏教で言う三毒の一つで「自分の意に逆らうものに対して憤る心」。元々は野生の生き物だった頃から、外敵から自分の身を守ろうとして発露する原始的本能。猫や馬なども、変なちょっかいを出されると怒ります。猫パンチを繰り出したり。人間の祖先も当然持っていた本能でしょう。

愚痴・・・仏教で言う三毒の一つで、「道理に昏くて、迷いの中でどうして良いのか分からず思い悩む心」。原始的な生き物だった頃は、進化の過程でプログラミングされた本能があればそれで良かったのですが、知恵が付いてくると「上手く」生きようとするようになります。しかしこの世は思い通りにならない苦の世界。そして知恵が大いに発達すると(世間的意味での)我執が邪魔をするようになります。

卑屈や、7つの大罪にある羨望・怠惰・高慢などは、猿や犬などヒエラルキーを持つ群れを作る生き物にもあります。低位の猿はボス猿に媚びたり贈り物をしたり、ボス猿の方では威圧(マウンティング)したりして、まるで人間社会のようです。つまりそれらは、群れを作って統制の元で生きる方が生存可能性が上がるからと選択した結果顕在化したもので、否応無く獲得した習性です。

また逆に、群れで社会生活をするようになって初めて育まれた「血縁者以外の他者を思い遣る心」をはじめとした善の心もあります。血縁の無い子にも授乳したり、仲間が捕食者に襲われていたら危険を顧みずに追い払おうとするなどです。象などはかなり高度な社会性を持っています。このような善の習性を身に付けたのは、無論助け合う方が生き残れるからです。

こうして考えてみると、人間が生まれる遥か昔から、生き残りをかけて受け継いできたものを含めた集大成が私たちの悪や煩悩でありまた善であって、私たちは太古と繋がっているのだと感じます。

煩悩は苦の根源という釈尊の洞察はその通りだと思いますが、108つあると云われる煩悩の中身をみていると、人として生を受けたことを感謝しながら享受すればいいのにと思うものもあります。

煩悩を滅し尽くそうとするのではなく、煩悩に囚われないようになるのが正解だろうと思いますが、いずれにしても釈尊の教えである四念処、すなわちいつも自分の心の動きに寄り添い、つぶさに自覚していくことでしか煩悩を御する方法はないのだと思います。

それはともかく悪や煩悩は、太古から獲得してきた習性という側面を持つごく自然なものであるからこそ、そこから脱するのが難しいのだろうなと、つらつらと考えました。