全力でぶつかるだけ
釈尊の教えはシンプルです。後代の人の「後付け」を取り去って釈尊在世の教えの要点を言うと、
■この世の全ては「苦」です。(自分ではどうにもならないという意味合いを含む)生まれるのも、老いるのも、病気になるのも、死ぬのもそうでしょう。
■「苦」の原因は「煩悩」です。「煩悩に執着」すればするほど「苦」が大きくなることを理解しなさい。
■「執着」から「離れる」ことが、「苦」を滅することです。「執着」を「断とう」と躍起になってはなりません。それこそが「執着」だと理解しなさい。
■「苦」を滅するために、以下を実践しなさい。
・正しいものの見方をしなさい。
・正しい心の持ち方をしなさい。
・言葉を正しく使いなさい。嘘を言ったり、人を傷つけることを言ったりすることもいけません。
・(仏教の実践修行としての)正しい行いをしなさい。
・日々、健全な生活をしなさい。
・善い行いをするよう、日々努めなさい。悪い行いをしないよう、自らを改めなさい。
・上記の教えを心に正しく刻み、反芻して深化させなさい。
・上記を踏まえ、正しく瞑想しなさい。
となります。在世当時の具体的な釈尊の指導としては、
〇証明できない形而上のことを議論するのは、何にもならないので止めなさい。(当時巷で言われていた「輪廻転生」や「業」など)
〇異性を遠ざけなさい。「苦」の中核たる「渇愛」の元です。異性は生きた「糞袋」だと思いなさい。
〇世間の雑事から離れて出家し、執着や貪欲を捨て去りなさい。
などがあります。
「苦」から逃れるために、みんな仕事しないで坊主になれ・異性はウンコだと思え という、なかなか過激なことを仰っていたわけです。まったく厭世的で、じゃあ生まれてこなければ良かったじゃん?とも言いたくなりますが、当時の仏教はこれに答えてはくれません。
ただ「生まれてこなければ良かったじゃん?」の答えは、釈尊死後に作られるようになります。仏教が輪廻転生や業を取り込んだからです。すなわち「輪廻の輪の中で修業をし、いつかそこから脱出して仏になる」ために人は生まれ、仏になるには人間として生まれる必要があることから、「生まれてこなければ良かったじゃん」にはならないのです。
ちなみに浄土教の場合は、人は輪廻の輪の中で修業をする必要はありません。阿弥陀さまという有難~~~い先人が先に輪廻の輪の外に出て自らの世界を作っており、死後は阿弥陀さまに全てお任せしますと言い切るまでに信仰すれば、私たちを必ず輪廻の輪の中から脱出させ、阿弥陀さまの世界に連れて行ってくれるからです。
まあいずれにしても、通仏教らしく、輪廻の輪を脱出することを至上のこととして絶対化しており、いわゆる「現世」を如何に有意義に、如何に楽しく生きるかを軽視しています。(但し年代が下ると現世重視の密教が出てきますが。仏教は重層的です。)
享楽的に生きることが良いとは思いませんが、浄土真宗を称するS会(=インチキ新興宗教;カネに汚く、偽装が得意)に入信してしまい、地獄に堕ちたくないからと、教団に可処分所得を寄付して「救い」のポイント点数を貯め、気が付いたら老人になっており、独身で無一文に近かった・・・などという気の毒な話を聞くにつけて、「みんな、今を大事にしようよ。」と思うのです。
生きることが喜びである宇宙観・世界観を自分なりに突き詰め、釈尊の教え(=苦を減らす方法論)を基本に現代のメソッド(瞑想法など)も使って「苦」を減らし、日々いろいろと考え、感じ、楽しく過ごして死んでいきたい。
死後の世界が有るなら有るで、死んでみたら分かるのだし、死ぬ前にあれこれ思い悩む必要がない。死後の世界があるとしたら人間の言葉で記述できるような底の浅いものではないから、つまらないことで時間を潰さないで精一杯生きて、死後に行った先でも全力でぶつかるだけだ。そう思います。