宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

浄土真宗との関わり⑴

S会と関わりを持って以来、浄土真宗をある程度まで理解することが出来ました。

仏教においてはこの世の実態は苦(自分の力ではどうにもならないという意味合いを含む)であり、あらゆる事象が因縁によって生じる実体のないものであって、常に変化し流転していきます。この世に生まれ落ちた者は、輪廻転生を繰り返してこの苦の世界を彷徨わなければなりません。

この苦の世界から抜け出すことを出離や解脱と言いますが、それには幾度となく輪廻転生を繰り返して修行を積み、悟りを開く必要があります。しかしこれは過酷であり、ろくに善行が出来ない人が大勢います。阿弥陀仏はそういう者たちを憐れみ、48もの願をたてました。そのうちの第18願は王本願と呼ばれるもので、全ての者を極楽浄土に往生させる願です。但し、阿弥陀仏を知らなかったり、信じていない場合などは、救いきれません。

阿弥陀仏は、48願を気の遠くなるような長い期間考え抜き、実行し、ついに成就させて仏となるや、全ての者に対して、「苦の世界から必ず救い出すから、わたしを信じ、南無阿弥陀仏阿弥陀仏に全てお任せします)と唱えてほしい、それがわたしの願いである」とメッセージを送り続けています。仏教においては六道輪廻は仏であっても干渉できなかった大宇宙の法則でしたが、阿弥陀仏は苦の輪廻からの出離の別ルートを完成させて阿弥陀仏となったのでした。

そのメッセージを疑いなく信じ、南無阿弥陀仏を称えるのが浄土真宗です。南無阿弥陀仏という称名には救いの働きが込められており、ろくに教義を理解出来ない者たちをも救うために、こんな短いのです。このお膳立てすら、阿弥陀仏が遠い昔に願の中でしてくれていることを実感できれば、南無阿弥陀仏という念仏を、阿弥陀仏のお蔭て称えさせてもらっていることにふと気が付きます。これが「他力の念仏」です。

なので、浄土教徒にとっては阿弥陀仏へは感謝しかありません。何とも有り難い仏様です。信前(信じきる前)も信後(信じきった後)も南無阿弥陀仏です。信じようとすることは最初必要ですが、それでは「自力の念仏」にしかなりません。信じようとする行為が、信じてないことを前提として行われるからです。

なお阿弥陀仏の48請願のうちの19番目と20番目は自力修行をする聖道門の者たちに対して浄土門を勧めるもので、「化土」への往生はできますが、極楽浄土へは往生できません。聖道門で行う善行(悟りを得ようとする善行で、世間的な親切などとは別)は、阿弥陀仏による往生に対しては、自力をたのむという点で、逆にマイナスに働きます。

うちは代々浄土真宗門徒ですが、教義をあまり知りませんでした。良い機会でした。