宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

シチューと仏教

いろいろと話題の多い精神科医の先生のコラムで、自らの性格を再発見した旨の記事を以前に読んだことがあります。

曰く、若い頃はもっとエネルギッシュでアグレッシブだったのに、(中年期となった)現在は落ち着いた性格であると自己分析したうえで、「私って、本当はこういう性格だったんだ」と驚きや感慨を持って書いてました。

歳をとって丸くなるとか落ち着いてくるのは世間で普通にあることだろうに、精神と心のプロともあろう人が何を言ってるのだろう???と不思議に思ったものでした。彼女は「人の性格とは、通常は一度形成されたら生涯変わらないのもの」と思っているようです。

しかし人の性格はともかく、自分自身の五感については、人は誰しも自分の感覚が正しいし不変のものであると考えがちです。

それは人間が生き物として、そのように進化してきた結果として存在するからと理解するのが妥当だと思います。腐敗臭を嗅いで不快に感じるのも、腐敗した食べ物を思わず吐き出すのも、食べると生命を危機に晒すからであり、痛みを感じるとそれを避けようとするのももちろんそうです。

しかしそれら五感で認識した事象は、絶対的なものではありません。温かい手作りシチューは美味と感じますが、これは人間の生存に大切な塩分・糖質・脂分などを含んでいるのを脳が判定し、報酬系の脳細胞に電気信号を伝えているだけで、味覚障害になってしまうと味が分からなくなります。

また事故や病気、重度の凍傷などで四肢の一部が無くなった人が、無くなったはずの部位の痛みを訴える幻肢痛があったりもします。本来は何も実体が無いものを、脳が生存のために意味付けするシステムにどっぷり浸かりながら、私達は生活をしています。

仏教では、全ての事象は因縁により生じて実体がなく、不変なものは何も無くて全てが流転していくと説きますが、温かい手作りシチューを食べて美味と感じるのも、「因」は進化の過程で得た人体の仕組み、「縁」はアフリカの飢餓地域などには生まれずたまたま日本に生まれ、ある程度の自由な時間ととりあえず健康な身体を持っている状態にたまたまあり、料理をするのが苦にならないパーソナリティになった故なのでしょう。まあ、ごちゃごちゃと考えるのはこれくらいにして、今日は楽しく作って美味しく頂くことにします。