宗教や心のこと

宗教や心について、考えたこと

もう飽きた?

日本では八百万の神と言い天照大神など多種多様な神様がおわしますが、キリスト教においては神は神で、唯一神です。だから a god ではなく the god でもなく God です。

 

その唯一神の名はヤハウェとかエホバなどと言い、旧約聖書では世界や人類を創造したとされます。イスラエル人によく関わりましたが、嫉妬深く残虐行為を平然と行っていた神でした。しかし神の子ジーザスが出て来ると「父なる神」となって、表には出てこなくなりました。言い換えると、人類の営みについて放置するようになりました。

 

昔、キリスト教に関する本を読んでいたとき、大きな違和感があったのがこの点です。せっかく人類やその他生き物を含む世界を創造したのに、なぜ放置するのか?と。

 

これについては、海外ドラマの中で「神は子供なんだよ」というセリフがありましたが、それが一つの答えになると思います。子供ならば興味を失えば放置するのも当然だし、ノアの家族とひとつがいの生き物以外の全生命を、洪水を起こして殺しまくったのも頷けるというものです。自分の意に沿わないから、殺しちゃえ です。


ただこの説は単純で深みがありません。絶対神であれば、森羅万象全てが意のままなので、自分の意に沿わないことは本来発生しないでしょう。発生するとしたら「被造物の意思を、自分の意思から切り離す」場合ですが違和感があります。被造物の意思を自分(=神)から切り離せば、自分(=神)と同じ思考をしない限りは意に沿うはずがありません。全知全能の唯一神は、そこまで馬鹿ではないでしょう。

 

 

やはり「全ては神の計画なのだ」とするか、「神の遊戯」とする方がまだマシではないでしょうか。

 

 

ではここに、「神は、人類や宇宙を無数に創造してきた」という前提を加えるとどうでしょうか?

 

 

絶対神だから何でも出来ます。なぜ何でも出来る神が、地球のみに人類を作らなければならないのでしょうか?またなぜ何でも出来る神が、作る宇宙の数を1つにしなければならないのでしょうか?(現代物理学で盛んに論じられているように、宇宙はユニバースではなくマルチバースということ)

 

人類や宇宙を創ろうという動機があったのなら、1つだけしか作らない方がおかしいでしょう。何でも出来る神には、制約が何も無いからです。

 

であれば、神が被造物の意思を自分から敢えて切り離しているという前提で、「神は地球の人類や地球に対する関心を失った」と考えるとしっくりきます。あらゆることから自由な神は、「被造物の全てをいつも見守る義務」も無いし、「被造物に対し関心が無くなったら放置する自由」もあるのです。「神の遊戯」とやらで弄ばれるよりもずっとよろしい。


宗教で「神は人の行いを全て見ている」とされるのは、それが宗教団体が信者をコントロールするための手段の一つということもありますが、それよりも人間というものが「信じたいものを信じる生き物だから」なのだろうと思います。

 

すなわち「神への祈りに応えてほしいというのは畏れ多いことだが、かといって祈っても存在すら認識してもらえず無視されるのは耐えられない。放置されているなどとは考えたくもない。」ということです。